若新雄純と考えるゆるいエデュケーション第3回 vol.2 子どもの自己肯定感を育む実験 ~自分と「やりとり」する~

2020年3月30日

(前回からの続き)

「ただ単なる自分を知っている」こと

文科省も「各学校が、学習指導要領の理念を踏まえ、子供たちの自己肯定感を育むことを目標として掲げつつ、日頃の教育活動を行っていくことが大切であることを示したものであると言えます」って学習指導要領に書いてあったりするんですよね。

自分のアイデンティティに目を向け、短所を含めた自分らしさや個性を冷静に受け止めることで身につけられる自己肯定感。一つ目は自らの力の向上に向け努力することで得られる達成感などを通じ高まる自己肯定感。(ここまで資料読み上げ)


これは解釈がちょっと甘いんじゃないですかね。ほんとは達成感じゃないんでしょうけど、学校の先生たちにいきなり言ってもピンとこないからこう言ってるんじゃないですかね。だから本来言ってることは「自分のアイデンティティに目を向け、短所を含めた自分らしさや個性を冷静に受け止める」ってことだと思いますよ。

で、これの本当の意味って「無条件の自分に自信を持つってことがすごいんだ」とかじゃなくて「ただ単なる自分を知っている」ってことだと思うんですね。なんでかっていうと「単なる自分を知ること」って学校の先生とかクラスが働きかけることで、できるようなものじゃないところもあると思うんですよ。

自分で、自分そのものを捉えないといけないわけじゃないですか。他者との比較じゃなくて、他者の評価に左右されない自己像の知覚。これはどうやったらできるんだろう。一方で小学校でクラスに入ると、他者と比較されるのが当たり前になって、その中で自分自身のアイデンティティとかをどうやって冷静に確かめるのかと。そこで提案したのが、この「自分をビデオで撮ってみる」っていうことですね。

お手本を見せない

これをやるときに、先生たちにすごく大事にしてもらったことが、お手本を見せないことなんですね。だから、こういうビデオを撮れたらよくできましたっていうのがない。今までだったら「こういうビデオを撮りましょう」とか「こういう風に喋れるようにしましょう」っていう訓練だったじゃないですか。

それは自己効力感を目指したものだと思うんですよ。人前で上手に喋れるとか、自分のことを上手に説明できるようになるとか。でも、この話はそういうお手本や見本はない。ただ撮るだけ。それを先生がいろんな視点からやってくれてて。

例えば「まず今度の運動会の目標を言いましょう」とか「この前の運動会の感想を喋りましょう」みたいな。日記みたいなものですよね。それを自分で画面を通して見て喋って。
小学校1,2年生の子が自分自身が喋ってる姿を見て、自分というものをどう捉えているんだろうってことをワークショップにしてるんです。先生は生徒のその様子を見て他の先生と意見交換したりしています。

自分で合格か不合格かのラインを探してる

それで、今の段階では自分が作ったビデオを他の誰にも見せてないんですよね。つまり、他者から評価されない環境ででやってるんですよ。撮って自分だけで見るんです。これやってみていくつか面白いところがあって。まず、誰にも発表しないし、どうやったら成功ってのも伝えてないんですよ。だけどやっぱりみんな何回も取り直しをするんですよね。

喋ってて、ミスったらブチって切るんです。撮り直しも、先生がこうなったら撮り直ししようねって言ってないんですけど、子どもたちが勝手に取り直すらしい。撮り直しをするってことは、第三者がうまくいきましたねって評価してないのに、自分で「合格か不合格かのラインってどこなんだろう」って探してるってことだと思うんですよね。

自分と「やりとり」する

次に面白いのは、後半になっていくにつれて、喋ってるときに黙って考える時間がある。そういうのって普段の学校の発表ではあんまりないらしいんですよね。小学校1、2年生の子が前に出て発表する時に、考えながら発表するってのは少ないらしいんですよ。

つまり事前に下書きを作って発表内容を準備してから喋るか、前に出て発表してるときに詰まったら、そのまま言えなくなって先生が「また今度ね」ってことがあるじゃないですか。でも考えながら喋るっていうのはなんかあんまり起きないらしいです。

これはまだ仮説なんですけど、自分と対話してんじゃないかって思ってるんですよね。自分だけの空間だから。自己肯定感って最終的にはそのままの自分を肯定できる必要があるんですけど、概して自分を認めるとか、自分のあり方みたいなものは、自分っていう存在と「やりとり」できないといけないんじゃないかなと思ってて。

つまり小学校に入ると、仮に自分とのやりとりなんてしなくても、先生や他人を通して自分像って作られていくじゃないですか。クラスの中でどれくらい、とか。それとは別に自分そのものと対話するっていうか、自分で自分自身を自覚するみたいなことだと思うんですよ。

だから合格ラインを自分で出すとか、自分で考えて自分で疑問を持って自分で問いかけをする、みたいなことをし始めたんじゃないかってのがちょっとわかってきて。これがなんで可能になってくるかっていうと、先生が基準や正解を提示しないからなんですよね。それから、誰も評価できないとこが大事だと思うんですよ。こんなの客観的に評価しようがないじゃないですか。でも、だから公教育の現場でこれを実験してみるっていうのが面白くて。

自分のモノサシをつくる

仮説はもうひとつあって、それはこのプログラムを通して自分のモノサシをつくれるんじゃないかっていうことなんですけど。つまり、自分が納得できたりできなかったりするのを自分で合格点出してるわけじゃないですか。これってまさに自分のモノサシをつくれてると思うんですよね

まあ、まとめると、この実験でわかってきたことは、自分ので勝手に基準をつくるプロセスに、「概して自分を捉える」っていうことが含まれてるんじゃないかということですよね。だから、先生にも周りにも友達にも見せてないのに、自分で勝手に合格点を決めたりする。NGかOKかはまさに自分で自分の基準をつくりつつあると思うし。だから、一人で喋りながら自分と対話して考えるってことが起きてると思うんですよ。

そうすると「どういうことだ」とか「もうちょっとこう言おうかな」みたいな、自分で自分の喋ってる内容について評価したり、考えたりする。それがクラス発表の時だと多分そうじゃなくて「こういうことを言えば先生が褒めてくれるな」とか「クラスでオッケーだよな」っていう他者の評価基準で、喋る内容を変えたりとか、他者評価の中でオッケーな範囲の中で喋ってんじゃないかと。自分のビデオは他人は見ないから、自分の納得を探りながら喋るわけじゃないですか。この探究は、まさにゆるいエデュケーションだと思っています。

若新 雄純(わかしん ゆうじゅん)

福井県若狭町生まれ。株式会社NEWYOUTH代表取締役、慶應義塾大学特任准教授などを務めるプロデューサー。
慶應義塾大学大学院修了、修士(政策・メディア)。専門はコミュニケーション論。全国の企業・自治体・学校などと実験的な政策やプロジェクトを多数企画・実施中。

全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生がまちづくりを楽しむ「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円「ゆるい就職」、目的のいらない体験移住事業「ゆるい移住」などをプロデュース。著書に『創造的脱力』(光文社新書)がある。

http://wakashin.com/

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