若新雄純と考えるゆるいエデュケーション第3回 vol.1 〜自己肯定感って、なに? ー「他者に勝つ」ことの限界ー ~

2020年3月30日

(前回からの続き)

自己肯定感って、なに? ~「他者に勝つ」ことの限界~

ある小学校で、前年度から自己肯定感を育むっていうテーマで新しいプログラムをやってるんです。自己肯定感って言葉は流行りじゃないですか。それは果たしてどういうものなのかっていう、そもそもの問い自体がそのプロジェクトに入っていて、僕の中ではすごい面白いん取り組みなんですよね。

何をやってるかっていうと、「じぶん研究」っていうコンセプトでプログラムをやってて。それは、自己肯定感をはぐくむためにICTを活用するプログラムなんですけど、ある市の事業で、かなり山奥にある小さな複式学級の小学校で行うんですよ。

その学校は本当に車で一里離れた方に行かないといけないくらい超山奥にあって、全校生徒が20人ほどしかいないんですね。そのうち、今僕が一緒にやってるところが1、2年生で。

その1、2年生と何をやってるかっていうと、自分についてのビデオをタブレットを使って撮るっていうただそれだけなんですね。
元々は前の市長から「市でその小学校にタブレット導入するから、タブレット使った新しい面白い教育プログラムやりたい」って言われてはじめたのがきっかけです。

そう言われた時に「タブレットで教材を見るとか、それじゃ全然意味ないな」と思って。タブレットを活用する一番面白いポイントは、動画を自分で撮影してすぐに観れるみたいな、今時の技術を活用した方がいいと思ってたんで、自分のありのままをどう俯瞰して認知するかみたいなことをやってみたいなと。そこで、テーマは自分を自分で認知するプロセスを通じて、自己肯定感なるものを探っていくものにしようと。自己肯定感は大事って言われてるけど、そもそも自己肯定感自体はどんなものかっていうことを探究していくっていうプロジェクトはあんまりないんですよね。

Self-esteemは公立の小学校と根本的に違う

ここで自己肯定感とはなんぞやって話になるわけです。自己肯定感っていう言葉って元々Self-esteem(セルフエスティーム)って言葉なんです。外来の概念ですね。日本ではこれを、従来の言葉でいうと自尊心とか自尊感情にあたるようですけど、とにかく最近は「自己肯定感大事」って言われてて。

本来的な意味でのSelf-esteemが僕の活動の根幹にあるテーマとしてもとっても重要だと思ってるんです。Self-esteemの考え方を追求すればするほど従来の小学校教育のあり方とは、根本的に違う部分が結構あるんです。だからそれを公立の学校でやってくことはすごい難しいけど面白いなと思ってるんですよね。

自己肯定感とは絶対的無条件に自分を認めるもの

自己肯定感っていろんなところで言われてるんですけど、結構難しくて「現在の自分を自分であると認める」とか「自分自身のあり方を肯定する」みたいなことなんです。「自分そのものが好きですよ」とか「自分自身のあり方を概して肯定する」みたいなこともそうですね。そういうことが他者との比較によって作られるんじゃなくて、絶対的無条件に自分を認めるものだろうとされています。自己肯定感っていう言葉自体が。

自分自身を肯定するのは他者の評価ではない

今までの一般的な小学校教育とかって、自己肯定感よりも対比的な言葉としては自己効力感とか有用感を大事にしようって言われてて。前者の自己効力感はSelf-efficacy(セルフエティカシー)っていうものなんですけど。効力感は書いて字の通りなんですけど「自分には◯◯ができる能力がある」とか「これだけのことができるぞ」とか。つまり、達成したら誰かに褒めてもらえて「僕にはクラスの中でこのくらいのことができる力があるんだ」っていうものですね。

有用感は「自分が他社から必要とされている」みたいな。だから「ありがとう」って言ってあげたりして、それぞれ役割を分担して「僕には誰かに必要とされる価値があるんだ」みたいな。だから効力感の方は比較と競争の中で勝つことで生まれ、有用感はみんなから必要とされているみたいな。いずれも、他者の存在や比較、条件がベースです。

そういうものが大事って言われてきたのに、ここにきてそれよりももっと大切にすべきものとして肯定感があるよって言われてるんですけど。その肯定感っていうのは自分で自分であると認める。自分を概して肯定するみたいな。

「自己効力感とか自己有用感とかって他者との関係の中で成り立つけど、自己肯定感はそれだけでは成り立たなない」ってことです。効力感は他者との関係の中、他者との比較の中で強いとか、他者との関係の中で自分が条件的に認められているってものなんですけど、自分自身を肯定するのは他者の評価ではない。他者の比較によって作られない絶対的無条件さ。

これってめちゃくちゃ難しいのが、小学校に入るとクラスができるじゃないですか。クラスの中で集団行動が始まって、まさしく全体の中の自分を意識し始める。それは社会で生きていく上で重要じゃないですか。他者との関係の中で自分の価値を見出すっていうのは。そして、点数とか順位になるから、自覚しやすい。同時に劣等感も生まれやすくなるけど。

他者に勝つことの限界

一方で、それは今の世の中だと行き過ぎてると僕は思ってて。田舎の学校にいると、田舎の学校で一番だとしても外に出ればいくらでも競争相手はたくさんいるじゃないですか。もっというと、自己効力感で危ういと思っているのは、自分は有能であると思っていたとしても比較や競争って永遠にキリがないと思うんですよね。仮に、勝ち続けられる人がいるとしても、全世界でその世代で一人だけ。

だから、自分はできるやつなんだとか、必要とされるんだって思ってる人が、例えば大学に行くなり社会に出るなりして、もっとできる奴に出会ったりとかしていくと、今度は逆に自分の価値を相対的に見失いやすくなる。「他者に勝つ」ということには限界があるってことです。

自己肯定感とは他者の評価に左右されない自己像というもの

なんで今、自己肯定感が大事かって色々理由があると思うんですけど、ひとつは、現代の社会環境がとにかく激しく変化するからでしょうね。

例えば、人と比較される環境にさらされても「自分は自分である」っていう無条件に自分を認める力がないと、順当にステップアップして常に自分が順当に評価を得続けたりできるかっていうとそうじゃなかったりするじゃないですか。想定外のことがどんどん起きる。

序列が崩れたり、今まで戦ってもないような人が現れたり、今までやってきた自分の仕事や評価が全く通用しなくなったりしていく時代なので、当然、特定の環境の中で勝つことは大事なんだけど、それとは別に自分は自分のことを根本的には無条件に認めていられるよっていう、概して肯定するみたいなことが大事になっていくんじゃないですかね。現在の自分はどうであれ自分なんだみたいな。そういう言葉ですかね。この前読んだ本にはこう説明されてました。“他者の評価に左右されない自己像というもの”。

若新 雄純(わかしん ゆうじゅん)

福井県若狭町生まれ。株式会社NEWYOUTH代表取締役、慶應義塾大学特任准教授などを務めるプロデューサー。
慶應義塾大学大学院修了、修士(政策・メディア)。専門はコミュニケーション論。全国の企業・自治体・学校などと実験的な政策やプロジェクトを多数企画・実施中。

全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生がまちづくりを楽しむ「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円「ゆるい就職」、目的のいらない体験移住事業「ゆるい移住」などをプロデュース。著書に『創造的脱力』(光文社新書)がある。

http://wakashin.com/

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