若新雄純と考えるゆるいエデュケーション第1回 vol.2 〜「評価」から自由になってみる〜

2020年3月30日

(前回からの続き)

感覚を共有する、あの場をつくりたい

その合宿は2回やるんですけど、普段の授業とは違います。何が違うかと言うと、例えば決まった答えに到達するためにやってるんじゃなくて、たまたまその場で出会った人と話し合うことによって初めて生まれるものを探したりつくり出すことを目的としているんですよね。

気分が乗ってきたら、盛り上がっていろいろ喋れるときってよくあると思うんです。3時間くらい喋って、話す内容について共通の感覚が湧いてきて、盛り上がって最後には終わるのが惜しくなる時ってあるじゃないですか。

その感覚を作るために、飯を食いながらみんなで喋って、中間発表みたいに夜中の11時に発表をするんですよね。仕上げるのはたいてい翌朝なんですけど。

その夜中11時の発表で面白いのが、時間までグループで話し合って、生まれた視点とかがそれぞれ全然違うんですよね。

無限の解釈の中の1つで良い

なんでこんなに視点が変わってくるんだろうって思っていて。多分その理由の1つは、着地点が明確じゃないテーマを扱うようにしているからだと思うんです。1回目の授業では人々の印象の中で生まれる「個性」について、説明する独自モデルを考えなさいっていうテーマなんですね。

個性ってこうやってできるんだっていうものを各グループごとに自由につくってください、みたいな。このモデルの説明ってのは完璧じゃなくてよくて、1つの切り口の説明でいいんですよ。

だから個性ってことを完璧に説明するモデルをいう必要はなくて、この視点で見ると個性ってこう説明できるんじゃないでしょうかみたいな、無限の解釈があるじゃないですか。

無数のアプローチがあることの1つを、自由につくればいいって感じなんですよ。だから全然違ってきますよね。出発も違うし、それを途中段階で共有したりすると、この見方あるんだとかここでこうやってんだとか。それで発表してる人たち同士も違う視点でやってるからおもろいなってなるので、みんな発表に対してワーワー言いますね。

人ではなく場を評価したい

あともう1つは、僕が正解を知ってて、その正解に近づくかどうかって話じゃないので、僕が学生に対していちいち評価をすることはしないんですよ。「もうちょっと深めてよ」とかは言うんですけど、「君のはあってるよね」「君のは間違ってるよね」ってのはないんです。

でも、大学の制度上成績を評価しなきゃいけないじゃないですか。そこは、SFCは成績において絶対評価ができるので、極論全員Aでもオッケーなので、ほとんどみんなAになることもあります。

それには理由があって、まず成績つける時には場の評価をしますよって。成績も、学ぶということにおいては本当はどうでもいいっちゃいいんですよ。ただ大学の授業である以上成績をつけないといけないから、僕らがやってるのは、成績の対象は学びの場だってカッコつけてて、場の成績をつけると。じゃあ、場の成績は、理想はAがいいじゃないですか。

だからみんなで場の成績として「今回の場はAの場だったな」ってものを目指そうと。そのためにみんなで授業を盛り上げようと。だから一人一人は見てないよ、僕らは、と伝える。一人一人は見てないからみんなで場をAだったらいいねって。

それで一応その基準をAにして、その中で自己申告で僕はプラス1だと思いますとか、あんま発言してないんで僕は違うと思います、とかいたら申告してもらってます。そういった学びの場をつくる中では、成績はどうでもいいんですよね、本当に。

「評価」から自由になる

じゃあ、評価をつけなくて、先生がいる価値はなんなんだって言われたら「ゴールは明確じゃないですけど学びを深めていくってこういうことなんだ、なるほど」みたいな面白さを味わってもらうことだと思うんです。「答えがないのに、先生は何してんの」って言ったら、先生がその学びの楽しさとか意義をその場に設定するっていうか。

なんでそれが大切かっていうと、答えがないのって最初戸惑うじゃないですか。僕が鯖江市でやってるJK課の高校生とかと活動する時も一緒なんですけど、最初「ゴール決まってないよ」とか「これをしたら成功、とか決めれないよ」っていうと「じゃあ、どうしたらいいの」ってなるんです。でもそれって普段からそういうゴールありきの環境にいすぎるからそうなってるだけなんですよ。

学校に行ったら部活でも授業でも、常にゴールはあるじゃないですか。だからそれが習慣化していて、ないよって言われると戸惑うだけなんですけど。ゆるいエデュケーションの一番の本質は、自分たちのことを評価する人がいないんだってわかった時に初めて人は自由に能動的に学ぼうとすることだと思うんですよね。

小学校1年生と3年生との違いはどこか

評価から自由になれないと、評価のために勉強してる感じになっちゃいますよね。それに気づいたことがあって、学会でアクティブラーニングってそもそも何かって議論をした時に、小学校1年生の1学期ってみんなアクティブだよね、みたいな話をしたんですよね。

アクティブラーニングの定義から考えると、1年生は自ら疑問を持って、能動的に発言して、積極的に間違って、手探りにやってるよねみたいな。でもなんか3年生くらいになるとアクティブじゃなくない?と。

それはなぜなんだろうってなった時、3年生は何かに慣れてしまっているんですね。それは、クラスの中に評価する先生がいて、その評価基準に照らし合わせて合ってるか合ってないかっていう視点で発言したり、行動したりすることじゃないかと。

だから、評価基準に合わせていこうっていう時には、失敗しながら学ぶとか多様な角度から見てみるとか、そういうことが不可能になってんじゃないかな。なので、小学校1年生がアクティブなのは、まだ評価基準を意識してないからだと思う。

つまり、小学校1年生って、発言のひとつひとつに対していちいち先生が評価して、クラスの中で優劣をつけていく感覚ってまだそんなにないじゃないですか。

だから間違っても平気で発言すると思うんですよ。だんだん間違うと恥ずかしいとか、答えがわかってから手あげたほうがいいとか、感じてくので。だから手が上がらない空間っていうのは、先生とか司会者が答えを持っている時だと思うんです。絶対に確信がないと、手を挙げられなくなるみたいな。

答えではなく手がかりを提供する

でも、そうじゃなくて、僕らが大学でやってる場の中では、僕とか先生が正解じゃなくて、手がかりを持ってるだけなんですよ。手がかりというのは、情報とか経験とか知識とか、ですね。

あと、彼らの議論をより盛り上げるためのフィードバックはできるんですけど、僕らが知ってる答えにたどり着くためにやってるわけじゃないから、この発言、この発表は合ってるんだろうかどうだろうかって、学生も萎縮しなくて済むんですよね。

これがゆるいエデュケーションの重要なポイントだと思ってて。JK課とかと活動する時も、そこに一緒にいる市役所の職員は評価する大人ではないってことを理解してもらうのが一番大事なんですよね。

なにかしらの場を運営してる人は、プロジェクトをうまく進めたいから「それがいいよね」とか、「それが求めてるものだよ」みたいな、妥当性が高いものを有象無象の案の中から引き上げたくなっちゃうじゃないですか。

そうすると「この人の評価基準はこうなんだ、じゃあこの人の評価基準に近いものを提案しなきゃいけないんだ。提案できない時は手を挙げるのやめよう」ってなっちゃうんですね。そんな中で評価基準を作らないっていうのは、ある意味では、それがゆるいエデュケーションの答えになってますね。

大学って極端な話、考えるための手がかりを与える場所だと思っているんです。だって、良い悪いを決めていくのは結局本人たちじゃないですか。

だから、親も子供に対しては、本当はそう言う態度がいいんでしょうね。迷ってる子供についつい「こっちがいいよ」って言っちゃうんじゃなくて、それは本人が決めるんだけど、より本人が納得できるような手がかりをいっぱい出す。

それも、自分なりに考えるってことが必要じゃないですか。親は、子どもはまだ自分なりには考えられないから正しい方を言ってあげなきゃって思うわけだけど。でもそこは子育ての中でもすごく難しいところですよね。

クソみたいなグループはクソ担当としてやっていこう

あと、学生に言ってるのは、この発表をやってみたら中にはクソみたいな発表のグループもあると思う、と。でもそれはいくつもグループがあったら1つくらいはクソみたいなグループができるじゃん。

たまたまメンバーの巡り合わせが悪くてそこがクソ担当だっただけだから、その発表がクソでもそれで成績は下がらないから大丈夫。そういうことは伝えてる。みんなでいろんな可能性を探るっていうと、やっぱりうまくいかないグループも発生するわけですよね。でも僕は、それは自然なことだから問題にしないよ、みたいな。

なぜかと言うと、別にそのグループがダメでも他のグループの発表が面白ければ、みんな学ぶじゃないですか。そういうことやったんか、みたいな。うちのグループはだからここがうまくいかなかったのか、とか気づけばいいし。みんなで笑えばいいんですよ。それもなんか人生の可能性を模索していく時に必要な考え方だと思うから。

何も生み出さない日があっても良い

1つ1つ、人生の節目節目で確実な結果を出すことよりも、ある節目で失敗しても、そこでなんでダメだったんだろうなとか、じゃあここ変えてみようかなってことを思えれば良い訳で。でも今の真面目に育てられてる子は、節目でも結果にこだわっちゃいますよね。

中学受験、高校受験、大学受験、就職活動、みたいな、数年おきにくるポイントで毎回ハードルをクリアしなきゃいけないっていうか。それで1回ミスると「遠回りしちゃうんだ、人生終わった〜」みたいになるっていうか。いや、そうじゃないよって思うんだよね。

JK課の会議で、今日の会議何も生み出さなかったねって日があっても、そういう日もあるってことにしてました。毎回小さくともいいから何か成果を出さなきゃってなると、結局やり方にこだわっちゃうと思うんですよ。成果重視より、やっぱりその場が面白いとかその場にいて発言したいとかそういう魅力が減るからやめようってなりました。

こんなこともあるんだ、できるんだっていう価値

成果には拘らないけど、だからといって、成果が出ないわけじゃないんですよ。だって例えばJK課の仕事にはゴールは設定してなかったんですけど、テレビとか新聞とか鯖江の町の歴史上ありえないくらいメディアに取り上げられて、広告効果に換算したら何億円以上っていうメディア露出をしたんですよね。

だから成果が出ないわけじゃなくて、あらかじめこれを出さなきゃいけないっていう答えに縛られていないことが大切だと思っていて。それが現代の日本人が新しくつくり出さなきゃいけない価値なのかなって思いますね。

アメリカやヨーロッパがお手本で、そこに近づこうって時代は終わったわけですから。新しい価値を新たに模索して上乗せしていくっていうか。別にJK課が露出してなかったら鯖江はなくなったのかと言うとそうではないんですよ。

でも、あることでよりこんなこともできるのかみたいな、新たな付加価値。そういうものが、僕らの人生に取っても社会にとってもこれから必要なのかなって思いますね。

若新 雄純(わかしん ゆうじゅん)

福井県若狭町生まれ。株式会社NEWYOUTH代表取締役、慶應義塾大学特任准教授などを務めるプロデューサー。
慶應義塾大学大学院修了、修士(政策・メディア)。専門はコミュニケーション論。全国の企業・自治体・学校などと実験的な政策やプロジェクトを多数企画・実施中。

全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生がまちづくりを楽しむ「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円「ゆるい就職」、目的のいらない体験移住事業「ゆるい移住」などをプロデュース。著書に『創造的脱力』(光文社新書)がある。

http://wakashin.com/

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